炭団は、木炭粉炭を白粘土で(9:1の割合)繋ぎ、型整器にかけて一定の大きさのボール状につくり、乾燥させます。乾燥は、夏は天日で1ヵ月ほど、冬は凍結を避けながら3ヶ月かかりました。これを藁で編んだ俵に10キロ詰めに梱包する。家庭では、こたつや火鉢で使用され、木炭に比べ炎が優しく火持ちがいいと喜ばれました。
昭和16年の炭団の天日干し風景
当時、当社の炭団工場は宅地の地下に造られました。地下に決めた理由は、敷地がなかったこと、地下は暖かく炭団の凍結防止になる事、粉炭が近所に飛び散らない事でした。ほとんどが手作りでの掘削作業だったため、建設には大変な労力と時間を費やしました。
久慈大火で深刻な被害
昭和20年、久慈大火が発生し、旧久慈市内が焼け野原となる。宮古林業久慈出張所、炭団工場、倉庫、家屋すべてを焼き尽くしました。さらには、久慈大火のショックから立ち直ったころの昭和25年12月、無情にも2度目の大火に見舞われました。久慈駅周辺から出火した火は、おりからの乾燥と暴風にあおられ、久慈駅前の炭倉庫地帯一体と共に、ふたたび細谷地のすべてを焼き尽くしてしまいました。昭和16年の掲載写真一枚を残して、全ての記録は灰となってしまった。
致命的な打撃であった。再建のための資金、人、物資など、親戚や知人、銀行などを頼み歩き、なんとか経営破たんの危機を乗り越えた。
久慈地域にLPガスの炎をともす
昭和27年、順調な炭団の製造販売に加え、新しい燃料として練炭、豆炭の取扱いや、さらには石油類、石油コンロなどの販売を開始し、実質的な創業期を迎えました。
昭和30年、好奇心旺盛の幸助が、いち早くLPガスの炎を久慈に持ち込んだ。地方の市長村としては全国的にも早い時期のことである。LPガスは、料亭、旅館などに紹介すると、たちまち話題となり、「とっても便利だ」と喜ばれ、業務用燃料として広く利用され始めた。のちに高度経済成長と共にLPガスは、広く家庭用燃料として普及し、地域エネルギーのインフラ整備が進んだ。